貧は福。

「貧は世界の福の神」という諺がありますが、「貧すれば鈍する」ではなく「貧すれば得をする」と信じる白洲三四郎が、独自の節約術、断捨離術、ミニマリストふう生き方などを配信。

お湯が出る暮らしは夢のまた夢だった~貧乏生活から学習できること1

先日、私が20代だった頃の貧乏生活について触れました。

思い出すままに書いてみたのですが、細かいことがほとんど書けていないことに気づいたのです。

「昔は貧しかったなあ~」という思い出話で終わってしまったら意味がありませんよね。

20代の頃は、どうすることもできなくて、貧乏生活に甘んじていました。

現在は、意図的に貧しくあろうと決めて、その貧乏生活の中に本当の豊かさを見つけ出したいと願っているのです。

で、今回は、昔の極貧生活を振り返る中で、今あって昔はなかったことについて、きっちりと記録してみようと思います。

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今は普通にあるので、当たり前になってしまっている、ありがたみを感じられなくなっていること多々あるのですね。

そいうことは、昔の「赤貧洗うが如し」という言葉があてはまる、極貧生活を振り返ると見えてきます。

水道の蛇口をひねるとお湯が出る暮らしなど、夢のまた夢だった頃。

例えば、現在の生活では、水道の蛇口をひねると、お湯が出てくるのですね。

水道からお湯が出るなどということは、私が20代に住んでいた部屋では、考えられませんでした。

当時から「三点給湯」という住宅用語はありました。

「三点給湯」とは、キッチン、バスルーム、洗面所の3ヶ所でお湯が使える給湯システムのこと。

私が20代の頃は、最低レベルのアパートに住んでいたので、部屋の中には水道の蛇口すらありませんでした。

共同で炊事場はついていましたが、もちろん、お湯など出るはずもない。

風呂もなく、銭湯(せんと)に行くしかありませんでした。

自分の部屋の中にキッチンがある部屋に引っ越しても、お湯が出ないので、コンロで湯を沸かして、キッチンのシンクで頭を洗った記憶があります。

本当に水道からお湯の出る暮らしなど、昔は夢のまた夢だったのです。

「便利さ」と「快適さ」の中に感じる異様な息苦しさ。

お湯が出る暮らしは、便利だし、快適です。

以下の写真はイメージで、私が住んでいるマンションではありませんよ(苦笑)。

お湯が出る暮らし

1945年に第二次世界大戦が終わって以降、日本という国全体が、この「便利さ」と「快適さ」を追い求めてきたとも言えるでしょう。

私がいわゆる「三点給湯」を実現した部屋に住んだのは、30歳を過ぎてからでした。

で、もう若くもない年齢になった今現在はというと、洗面所のない部屋に住んでいるので、「二点給湯」の暮らしです。

顔を洗うのはキッチンのシンクでしています。浴室には洗面道具を置くスペースがないからです。

独立洗面台がある部屋は家賃が高くなるか、マンションではなく、木造アパートだったりするのですね。

では、私は「三点給湯」の部屋に住みたいと思っているのでしょうか。

それは、考えたこともありません。

風呂とキッチンでお湯が使えるのであれば、それで充分です。

では逆に、お湯の出ない部屋に引っ越さざるを得なくなったら、そういう暮らしに耐えられるでしょうか?

お湯が使えないということは、風呂がついていないということですよね。

銭湯に通う暮らし、それはちょっと想像できかねるほどです。

その前に、近所に銭湯があるのかという問題が浮上しますよね。

シェアハウスの共同風呂を利用できればいいのかもしれませんが……。

こう考えてくると、内風呂といって、部屋の中に浴室がある暮らしに、首までつかっている自分がここにいることに気づきますね。

しかし、です。この暮らしが大好きかというと、それがかなり怪しい。

「便利さ」と「快適さ」の最中にいると、奇妙な「息苦しさ」を感じるのですね。

これって、幸せじゃないですよね。

不便極まりない、快適とはほど遠い暮らしに、言い知れぬ「安らぎ」と「癒し」をイメージしてしまう自分は、ないものねだりの贅沢者なのでしょうか。

いえ、そうとも言えないと思うのです、その「安らぎ」と「癒し」は、単なる郷愁をこえた何かを意味しているのかもしれません。

銭湯に通う暮らし、それは不便ですが、温もりにした安堵がそこには息づいている気がするのです。

柳田國男の「山の人生」から受けた衝撃

柳田國男の「山の人生」(遠野物語/山の人生改版 (岩波文庫) [ 柳田国男 ])という本を読むと、山で暮らす人の中には、火をまったく使わないで暮らしている人もいたと書かれています。

食べ物はすべて生で食べたそうです。

風呂はありませんから、体は川で洗ったのでしょう。

そういう文化的な生活とは真逆な暮らしを想像してみることも、われわれ現代人には必要なことだと思うのです。

ということで、どの蛇口をひねってもお湯の出る暮らしは、現代では当然であって、貧乏生活といいつつも、どっぷりと「便利さ」と「快適さ」に浸って暮らしていることがわかりますね。 

しかし、柳田國男の「山の人生」を読んでわかるとおり、湯が普通に出ることより以前に、火が当たり前に使える生活そのものが、人間の長い歴史においては決して普通ではなかったということを思い出すのは有益ではないでしょうか。

自分自身は、生きる最少体です。命は一つしかありません。

その一つしかない命の根源にある、野生ともいうべき「生命力」を呼び起こすには、どの蛇口をひねってもお湯が出る暮らしから離れてみることも大事だと思えてくるのです。